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フェアフィールド郡()は、アメリカ合衆国コネチカット州の南西隅に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は916,829人であり、2000年の882,567人から3.9%増加した〔Quickfacts.census.gov - Fairfield County - accessed 2011-12-06.〕。人口では州内最大の郡である。人口密度は1,465人/平方マイル (566人/km2) であり、州内では最も密度が高い。郡内には人口で州内10傑に入る都市が4つある。はブリッジポート市(第1位)、スタンフォード市(第4位)、ノーウォーク市(第6位)、ダンベリー市(第7位)である。4市を合わせた人口は433,368人となり、郡人口の半分に近い。 アメリカ合衆国行政管理予算局がフェアフィールド郡をブリッジポート・スタンフォード・ノーウォーク大都市圏に指定している。ニューヨーク市への通勤者が多いので、ニューヨーク・ニューアーク・ブリッジポート広域都市圏にも含まれている。 郡内にゴールドコーストと呼ばれる地域があることで、2005年のアメリカ合衆国商務省経済分析局統計では一人当たり年収で国内第6位に入った〔See 〕。コネチカット州は国内でも裕福な方の州である〔The Connecticut Economy Fall 2008 〕。 この裕福な町に加えて低層から中流の労働者階級が住む町もある。裕福な地域よりも人口密度が高く、多様な経済で知られている。 州内の他の7郡と同様にフェアフィールドに郡政府は無く、郡庁所在地も無い。郡は地理的な区域としてのみ参照される。州内では市や町が、消防と救急、教育、雪かきなど地方政府活動の責任がある。隣接する町が特定の資源を共有する場合もある。 == 歴史 == フェアフィールド郡となった地域にヨーロッパ人が訪れる依然、多くの小さなインディアン部族が、互いに関連性を持たずに住んでいた。東からポーガセッツ、タンキテク、シワゴニーなどワッピンガー族に属する部族がいた。フェアフィールド郡地域にはパキオク族やポタタック族もいた。オランダ人探検家アドリアン・ブロックが1614年春から初夏にコネチカット海岸を探検し、''オンラスト''という船を建造した。しかし、地域最初のヨーロッパ人開拓者はイングランドからのピューリタンや会衆派教会員だった。コネチカット植民地設立者の一人ロジャー・ラドロー(1590年-1664年)が1639年にフェアフィールドの土地を購入して認可され、また1640年にはノーウォークの土地を購入した。ノーウォークの町としての認可は1651年だった。ラドローがフェアフィールドという名前を選んだとされている。アダム・ブレイクマン(1596年-1665年)によって、ストラットフォードの町が1639年に設立された。ウィリアム・ベアズレー(1605年-1661年)は1639年ストラットフォードの初期開拓者に入っていた。 1666年5月10日、ハートフォードのコネチカット植民地議会の法により、4つの郡が作られた。フェアフィールド郡、ハートフォード郡、ニューヘイブン郡、ニューロンドン郡だった。 当初のフェアフィールド郡にあった町は、ライ、グリニッジ、スタンフォード、ノーウォーク、フェアフィールド、スタンフォードだった。1673年、ウッドベリーが法人化されフェアフィールド郡に付加された。1683年、ニューヨーク植民地とコネチカット植民地の間にその境界について最終合意ができた。その結果、ライの町はニューヨークに移管された。17世紀後半から18世紀、コネチカットの西部で新しい町が幾つか法人化されフェアフィールド郡に追加された。1687年のダンベリー、1709年のリッジフィールド、1711年のニュータウン、1740年のニューフェアフィールドだった。1751年、新たにリッチフィールド郡が設立され、ウッドベリーの町が移管された。1788年ニュータウン、ダンベリー、ニューミルフォードの各町の一部を併せ、ブルックフィールドの町が法人化されたことで、フェアフィールド郡はリッチフィールド郡から領域を譲り受けることになった。これでフェアフィールド郡の領域が確定した。 初期の郡住人には次のようなものがいた。 * ジョセフ・ホーリー(1603年イングランド生まれ、1690年没)、1629年にアメリカに渡り、1650年にストラットフォードに入植した。後にストラットフォードの初代事務官になった。その息子のエフレイムが1683年にトランブルでエフレイム・ホーリー家屋を建て、これが現在も個人住宅として残っている。 * トマス・フィッチ(1700年頃-1774年)、ノーウォーク出身、コネチカット植民地総督 * ゴールド・セレック・シリマン(1732年-1790年)、フェアフィールド町出身、アメリカ独立戦争に従軍、1776年に准将、同年のニューヨーク・ニュージャージー方面作戦に参戦 アメリカ独立戦争時、コネチカットから莫大な農産物が生産され、非公式ながら「食料の国」と呼ばれるようになった。1777年春、ニューヨーク市にあったイギリス軍総司令官ウィリアム・ハウが、コネチカットから大陸軍に流れる食料を止めるようウィリアム・トライアンに命じた。1777年4月22日、トライアンとヘンリー・ダンカンが26隻の艦船に2,000名の将兵を載せ、ダンベリーの大陸軍補給庫を襲撃するべく、ウェストポートのコンポビーチに上陸した。ストラットフォード生まれの大陸軍少将デイビッド・ウースター(1710年-1777年)がダンベリー補給庫の守備にあたり、僅か700名の部隊で守った。このダンベリー防衛のためにシビル・ルディントンがニューヨークの民兵隊を集めた。このニューヨークの民兵隊にはシビルの父ヘンリー・ルディントン大佐も入っていた。この部隊はダンベリーが燃やされたあとに到着したが、ダンベリーの守備隊を助け、4月27日のリッジフィールドの戦いでイギリス軍と戦った。ウースターはリッジフィールドで負傷し、5日後にダンベリーで亡くなった。 2年後の1779年2月26日、イギリス軍がグリニッジを襲撃し、その前夜にナップの酒場に泊まっていたイズラエル・パットナム将軍が馬を駆ってスタンフォードの住民に急報した。パットナムはイギリス兵に銃で撃たれたが、逃れることができた。被っていた帽子には銃弾で穴が開き、現在グリニッジのナッブの酒場に展示されている。 1779年夏、ウィリアム・トライアン将軍がアメリカ側に懲罰を与えるために、約2,600名の部隊を率い、コネチカット海岸の市民を標的に攻撃した。7月5日にニューヘイブンを襲撃し、7日にはフェアフィールドを攻撃して焼いた。7月10日にノーウォークを襲撃し、11日に町を焼いた。ノーウォークの民兵隊指揮官スティーブン・ベッツ大尉が侵略軍に対抗したが、勢力に勝るイギリス軍に圧倒され、退却を余儀なくされた。 フェアフィールド郡と隣のリッチフィールド郡ではデイビッド・シャーマン・ボードマン(1786年-1864年)が著名な弁護士かつ判事だった。 1801年10月7日、ダンベリー・バプテスト協会のネレマイア・ドッジなど会員が、当時のアメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンに手紙を書き、コネチカット州ではバプテストとして信教の自由を表明できないという心配事を伝えた。コネチカット州は、バブテスト教会が州内に設立される前に、「昔の勅許」を得ていた。1802年1月1日、ジェファーソンはドッジ達に返書を送り、「国教分離の壁」が彼等を守ってくれると考えていることを伝えた〔Letter to Danbury Baptist Association, CT, January 1, 1802〕。このジェファーソンの手紙に記された良く知られた言葉は、アメリカ合衆国憲法修正第1条にも、その後の修正条項にも出てこない。 フェアフィールド郡はニューヨーク大都市圏の延長にあると見られることが多いが、その領域にも多くの産業がある。工作機械のメーカー、ブリッジポート・マシーンズは1938年にブリッジポートで設立された。スタンフォードは郊外都市の外れにある例であり、多くの大規模かつ重要な会社が事務所を置き、ニューヨーク大都市圏に近いことの恩恵を受けている。 1920年代を頂点として、クー・クラックス・クランは郡内で活動し、その政治に影響を与えた。ダリエンで最も活発に活動した〔DiGiovanni, the Rev. (now Monsignor) Stephen M., ''The Catholic Church in Fairfield County: 1666-1961,'' 1987, William Mulvey Inc., New Canaan, Chapter II: The New Catholic Immigrants, 1880-1930; subchapter: "The True American: White, Protestant, Non-Alcoholic," pp. 81-82; DiGiovanni, in turn, cites (Footnote 209, page 258) Jackson, Kenneth T., ''The Ku Klux Klan in the City, 1915-1930 (New York, 1981), p. 239〕。その後は消滅した。 フェアフィールド郡は州内他の7郡と同時に、1960年10月1日に執行された州法に従い、郡政府を廃止した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェアフィールド郡 (コネチカット州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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